ビンラーディン殺害作戦の詳細
(2011年8月5日掲載)

 2011年5月1日のビンラーディン殺害作戦の詳細が、各種の報道によって段々と明らかになってきている。特にニューヨークで発行されている月刊誌『ニューヨーカー』の最新号(インターネット版8月8日号)のニコラス・シュミドルの記事が、注目される。それは、攻撃参加者のインタビューなどを基に作戦を詳細に再現しており、これまでの理解を多くの点で修正したからだ。その記事に依拠しながら、新しい事実や、これまでの認識が改められた点を紹介しよう。

ビンラーディンの居場所を発見した後に、オバマ政権内部では対応に関して議論があった。B2ステルス爆撃機による空爆をゲーツ国防長官などが主張した。というのは、1980年のテヘランの米大使館人質救出作戦の失敗を想起したからだ。この際には救出部隊のヘリコプターが砂嵐の中で故障し作戦が中止された。さらに撤収時にヘリコプターと航空機が衝突し死傷者が出た。

オバマが、爆撃ではなく特殊部隊による襲撃を決断した。

攻撃部隊はアフガニスタン南部のジャララバードの基地から出撃した。事件直後は、インド洋上の空母カールビンソンから出撃との報道が多かった。

攻撃には23名のネービーシールズ(特殊部隊)が参加した。初めて米軍筋の情報により参加人数が確定された。

他に現地語の通訳と、犬が一匹参加した。

2機のブラックホーク・ヘリコプターが襲撃作戦に使用された。オバマ大統領の指示で、さらに4機のチヌーク・ヘリコプターが待機した。そのうちの2機はパキスタン領土内で密かに待機した。

90分の飛行の後に目標に到達した。まず一機がビンラーディンの邸宅上空に留まり、ロープを伝わって隊員が突入する予定であったが、故障により邸宅の敷地内に不時着せざるを得なかった。それが、対空砲火による撃墜との可能性を懸念した2機目は、邸宅の外に着陸した。

戦闘が始まると、周辺の住民が近寄って来た。通訳が危険だから自宅に戻るようにと説得した。住民たちは、通訳が米兵だとは気がつかなかったようだ。

18分間の戦闘でビンラーディンが3階で殺害された。まず胸に銃弾が命中し、次に顔に命中した。射殺した隊員名は公表されていない。

DNA鑑定用にビンラーディンの遺体から骨髄が採取された。

ビンラーディンの顔写真が撮影された。

米兵は、戦闘後の20分間で邸内のパソコンなどを押収し故障したヘリコプターを爆破した。

後から到着したチヌーク・ヘリコプターにも分乗して隊員は現場を離れた。

ビンラーディンの遺体と採取された骨髄は別々のヘリコプターで運ばれた。

作戦の状況はホワイト・ハウスなどに実況中継された。これは、上空5千メートルを飛行していた無人偵察機が映像を送ったものである。これまで報道されていたように特殊部隊員のヘルメットにテレビ・カメラが装着されていたのではなかった。

基地に帰還し、確認作業の一環として身長を測ろうとしたが、メジャー(巻尺)が無かったので、背の高い隊員が遺体の傍(かたわ)らに横になって身長を比べた。

遺体はインド洋上の空母カールビンソンに運ばれ、水葬された。

水葬に関してはサウジアラビア当局に通報し、その承認を得た。

押収したパソコンなどから、ビンラーディンが、オバマ大統領とペトレイアス将軍の暗殺を計画していた事実が分かった。また米国内での列車を標的としたテロの計画もあった。

オバマ大統領は、ネービーシールズを統括する司令官に直接に謝辞を述べると共にメジャーを贈った。

(8月4日、記)
<関連情報>

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注:関連情報はJAMEEF編集部が付記した。

(評論家 高橋和夫<たかはし かずお>)
http://ameblo.jp/t-kazuo/