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| (2008年7月29日掲載) |
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1973年の第4次中東戦争以降、日本はイラク原油を注視 ◆ イラク原油の売込みに日本は冷淡 1972年4月、イラク国営石油会社(INOC)のカサブ総裁がイラク原油販売のため訪日した時、日本側の対応は冷淡であったとされる。イラク原油は硫黄含有率が高く、重金属も含んでいたので石油会社には敬遠されたのである。その他にも、この時期にはイラク側と日本側の其々の事情があったようだ。イラク側にはBPを中心とするイラク石油(IPC)の国有化をしたものの、イラクが手にした原油はBPの妨害で買い手がつきにくい商品であった。また、当時の日本側には石油備蓄制度もなく、翌1973年の石油危機など予想していた訳でもなかったため、日本側が手を出しにくい原油でもあったのだ。しかし、この時の対応が、翌73年11月の石油危機以降の立場の逆転により大きなシッペ返しを食うことになるのである。 ◆ 日本イラク石油開発の設立 1973年、フランスの国営石油会社(ERAP)(注)はイラクのBuzurgan及びAbu Ghirabの2つの油田を発見しており、更なる追加契約の締結にあたり住友商事に参入を打診、住友グループが中心となり「日本イラク石油開発」を設立した。日本側の試掘3本のうち2本成功。1977年日本向け積出しが始まった。油質はBasra Heavy。しかし、1979年、長期原油売買契約をめぐり、重質油に対する日本市場の忌避性向とイラクの国際市場価格維持方針のため、INOCと交渉が決裂し、20年間一定量の原油買取権を放棄、開発工事代金に関わる問題解決を待って、1982年会社清算。 (注) フランス政府は国営石油会社(CFP、後のTotal)を持っていたが、米英系のセブン・シスターズ(7大メジャーズ)に対抗するため別の国営会社ERAPとSNAP(フランス国内のガス開発)、石油探査局(アルジェリア)を1969年統合し、新たにElfを作り上げ、さらにこの2つの国営企業を統合し国際競争力を持つメジャーに育成した。 ◆ 田中角栄の資源外交とイラク 田中角栄は総理在任中(1972年6月~1974年1月)、20数カ国に及ぶ外国訪問を行ったが、その殆どの狙いは日本の高度経済成長と列島改造計画に不可欠な資源の確保を目的とした、いわゆる「資源外交」であった。イラクもそのターゲットとなる国の一つで、中曽根通産相(当時)によるイラク訪問とその後の政府主導のイラクとの経済関係が両国の道筋を敷いたといえる。 中曽根通産相によるイラク訪問はオイル・ショック直後の1974年1月。この訪問の目的は「長期にわたる石油の安定確保」と「経済技術協力協定」の締結で、その内容は次のようなものであった。 ❶ イラク→日本
❷ 日本→イラク
日本政府主導の形で行われた石油と経済協力のギブ・アンド・テイクの持つ意味と影響は、当時としては大きなものと評価された。これまで殆ど日本と関係がなかったイラクがサウジアラビアやクウェートに次ぐ石油大量供給国として新たに一枚加わることは石油不足に喘ぐ日本にとってその影響が大きいということがその理由であった。 ◆ 政府主導の対イラク資源外交 日本政府主導でいわば“石油と経済協力”の交換計画が行われた背景には、当時の指導者(田中首相、中曽根通産相)のエネルギー資源を持たない日本の一つの生き方を鮮明に示した点にあるといえよう。田中角栄にはついては金権政治家としてダーティーな評価を受けているが、戦後の政治指導者を見回してみても“エネルギー確保“にこれほど精力を傾けた総理は見当たらない。 中曽根通産相はイラク政府との会談で「日本の対応が遅すぎる」といわれ、「1972年(注:イラク石油産業の国有化のあった時期)から(イラク政府より)盛んに原油供給の申し入れがあったにも関わらず、日本が中々応じなかった」ことに対する不信感を示された。このような背景の中で1973年の第一次石油危機を迎えて政府主導による経済協力が推進されることになった。金融面についても日本輸出入銀行総裁から邦銀に対して資金協力の要請が行われた。 こうして政府主導の下で官民一体となり、イラクのインフラ関連プロジェクトの推進(1973~1982年の10年間で1兆5,420億円)と非軍事物資の輸出を増加させていったのである。 |
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| 以上 |
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| 参考文献: ① 石油戦争の歴史 湾岸の興亡 山田栄三著 1991年8月発行 新潮社刊 ② 戦後石油産業史 石油連盟刊 1985年発行 |
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| (幹事 中嶋 猪久生<なかじま・いくお> ) |